孔雀明王和守インタビュー
Q:和守の特徴は、上代語による「祝詞構文」ですが、まず「祝詞」の起源からお話をお聞かせいただけますか。
斉藤:
祝詞構文を作成するにあたりまして、その基本となる文献は、菟田俊彦先生による『祝詞大成』であります。
その文献をもとに、祝詞の歴史や祝詞の特質に関して日々学ばせていただきながら、それを皆様に公開させていただいているという職務でございます。
七澤代表もお話しされていますが、日本語というのは、世界に6000語ある言語の中で2割ほどにあたるポリネシア圏のほんの一部、それも母音と父韻がしっかりとあって、そのうえで子音が成り立つという、極めて稀な言語です。
それによって必然的に、永久不滅といいますか、とても長い歴史を持つに至っている言語ですよね。
そういった日本語の言霊の本質がずっと長い間伝わっている中で、ここからは菟田先生のお言葉ですが、祝詞とは、そのような日本語を使う「長い生活体験から生まれた所産である」ということになります。
つまり、自然発生的な所産として、明確な形として出来上がってきたというところが、祝詞の起源という意味では一番最初のところになります。
さらに、祭祀という文化が発生したときに、その職務に預かる人たちを「職掌(しょくしょう)」といいますが、いわゆる古代氏族の方々が出てきました。
たとえば、古代氏族の方々で祭祀をあずかった「忌部氏」や「中臣氏」、「物部氏」ですとか、ほかにも色々と古代氏族の名称がありますが、そういう方々が祭祀の中で携わる中で使った言葉が、祝詞ということになります。
ですので、祝詞の2番目の起源としましては、祭祀という文化が明確に形となって出始めたころに、職務職掌として携わった忌部氏や中臣氏に代表される古代氏族の方々が言葉に発したものが「祝詞」の起源であるともいえます。
本来、言霊を備える日本語というものがあって、その中で自然発生的に生まれた言葉そのものから、さらに祭祀という文化が生まれて、そこで担当する氏族の方々が出てきて、というところになります。
Q:祝詞は、非常に独特な発生の仕方をしているのですね。現代語による祈りや、世界における祈りというものもある中で、いわゆる上代和語で構成される祝詞による祈りは、どのような違いを生むのでしょうか。
斉藤:
言霊を備える日本語というものは、結果として歴史も長いものにもなってくると思うのですが、それは同時に、普遍的な言葉(普遍の真理)であるということにもなると思います。
そういった言語ですと、白川の学びにあるように、学びの階層性がしっかりあるということですよね。
その中に、神の階層、神の意識というものが明確に備わっているというところで、結果として、人が神と一如になることのできる言語、ということになるのではないかと思うのです。
とくに上代語といった古代の言葉というのは、当時の縄文時代の方々一人ひとりが神と一如であった、そういう時代のものでもあったわけですね。
その意識を自ずと起こすことができる、その特質を持っているのが、当時使われていた日本語、上代和語である、ということだと思います。
Q:今お話を伺いながら、現代における祈りや、世界で行われている祈りというのは、ある意味で神と人が分離していることが前提となっているように思いました。それに対し、上代和語による祈りというものは、神を迎え入れることが基本になっていると感じます。
斉藤:
おっしゃるように、人が客観視の立場を伴いながら、神のはたらきを迎えることができる言語が、日本語であるということになると思います。 白川で、よく日頃の学びにおいて言われることですが、「神」と結ぶか、「霊」と結ぶか、という違いがあります。
つまり、霊といっても、純粋な結びのはたらきとしての霊ではなくて、いわゆる魂(たましい)が遊離された状態から祈ることからの霊的存在が、その祈りに介在していないか、というところだと思います。
西洋では精霊なども善とみなされてしまいますが、そのような善悪を含め、情緒の階層、魂の階層の先に、本来の霊の階層、神の階層があることを学んでいるなかで、神の階層、神の意識と、人が一如になっている言葉であるのか、それとも曖昧に、霊的存在と癒着して繋がってしまうものであるのかという、そのような違いということになるのではないでしょうか。
Q:その意味において、日本語は他の言語とは明確に違うということですね。
斉藤:
そうですね。先ほど申し上げたように、少なくとも日本語というものは、人が、神の意識を階層として明確に見出すことのできる言語だと思うのですね。
現代社会においても日本語を使っていますが、そこにはさまざまな想念や思想などが入って、その階層が曖昧になっています。
日本語を話していれば、誰でも初めから神と繋がるのではないかというふうに思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本語でも、やはりその特質となる、階層性というものを自覚したうえで見出されない限り、人は、神と一如にはなれないということだと思うのですね。
Q:祝詞を奏上するときの心得というものと、デジタルテクノロジーにおいて共通する部分などありましたら、ぜひお聞かせください。
斉藤:
菟田先生のご著書の中にも書かれているのですが、まず祝詞は、「言葉自体が持つ言霊の威力に価値が認められるので、奏読(そうどく=唱えて読む)に重点を置くべきであり」と書かれているのですね。
ということは、祝詞奏上においても、言葉を発することで言霊を発動することになると思うのですが、そのときにやはり日頃の学びでよく言われる、情緒の階層を、階層としてしっかりと明確に客観視しながら、それを超えていくといいますか。
やみくもな感情中心の読み方ではなくて、淡々と、一音一音が神のはたらきというところに成り立つその一音一音を、ただ淡々と読み上げていく。
余計なことを思考せずに、ただ素直に淡々と読み上げていくということが、その情緒の階層を客観的に捉えるということにも繋がると思います。
そこが一つ、ポイントではないかと思います。
つまり、感情中心で読み上げない、ということが大事です。
そうなりますと、ロゴストロンによるデジタルの発信は、まさに感情中心では発信しませんので、そこが一つの大きな共通点ですよね。
ましてやデジタルのロゴストロンは、情緒の階層をしっかり明確に、客観的に捉えられていますから、階層性が明確にありながら、情緒に囚われず、惑わされず、確実に発信できるのがデジタルの特徴でもあると思います。
一方で、既存の神道界や宗教界といわれるところでは、そういった情緒の世界との境界線はかなり曖昧なのではないかなと思います。
だいたいは、感情を入れ込んで唱えているケースがほとんどすべてではないでしょうか。
さらには、いわゆる霊的存在と繋がるはたらきというものもあります。
その意味で霊も力を持っているので、情緒中心で唱えていても、霊の階層の次元におけるはたらきが備わってしまうので、エネルギーの発動はもちろんあると思います。
こういった意味での霊の階層ではなくて、神の階層と一如になってはたらくということを、より直接的に発動、発信できるのがロゴストロンの力だと思います。
それによって、アナログの面でも情緒に囚われずに、つまり感情中心でおこなうものではないこと。
その真義を自覚し、心がける、ということになります。
Q:祝詞は、その文章自体がとても特徴的な構造になっている一方で、(ロゴストロンから発信する)構文の書き方というものもあります。この両者の共通点について、お話をいただけますでしょうか。
斉藤:
祝詞の文章構造の成り立ちでまず思いますのは、「フレーム」の中で成り立っているということが一つ言えると思います。
たとえば、「掛け巻くも畏き(かけまくもかしこき)」から始まって、「恐み恐みも白す(かしこみかしこみももうす)」で終わるのですが、その中に起承転結のようなものがあります。
そのような一つのストーリーとして出来上がっていて、それがさらに一つのフレームの中で出来上がっているということです。
そういう意味では、限定のある中でもって言葉が作られているわけですよね。
そうなりますと、まずその時点で、自己の自我が、ある意味抑制されるといいますか、自分の自我意識中心、我欲中心では自由に書けないということが生じます。
それが功を奏して、「私」の内容ではなく、「公」の内容で書くことに繋がる、いわゆる自我の意識を超えた言葉の表現にもなりますし、そのフレームのなかで意識もそのまま素直に偽りなく言葉と気持ちがおさまっていけば、結果として発動しやすいということになると思うのですね。
ましてや、内容が公の構文となれば、よりその実現度が高まるということになります。
構文にも、一人称、三人称などありますが、それもやはり、自分の自我よりも他者というところに繋がると思います。
公ということで、そういった三人称の構文ならば、実現がしやすくなるというところでは共通点としてあるように思います。
Q:我欲というものは力が無くて、やはり公といいますか、それこそ神の階層である高い視点から発する言葉こそ、影響を及ぼす範囲であったり、力が強いということになるのですね。
斉藤:
そうでしょうね。本当に神の意識の階層と人が一如になったならば、基本的には、すべてが実現してしまうのではないでしょうか。
ところが、先ほど申し上げたように、霊的存在はその霊の世界のほうでやはりエネルギーがあり、その働きはあるので、よくよく気をつけなければなりません。
Q:まさに、神とともにある「祝詞」ということになると思うのですが、いわゆる神社で奏上されるような祝詞と、今回和守に入っている「国津神祝詞構文」というものは違うとお聞きしています。
斉藤:
「国津神」は、日常生活の様々な場面での神のはたらきとして捉えることができます。
「国津神祝詞構文」とは、そのような国津神のはたらきとしての構文ということになります。
そして、さらにその次の階層に「天津神」の階層があるということの前提のうえでの、国津神のはたらきということです。
つまり、天津神という階層を無視して、国津神だけだと認識してしまいますと、心願成就など、個人の会社経営にしても何にしても、やはり個人中心の「私」優先の文章になりやすいですよね。
でも、国津神の階層というのは、その先に天津神の階層のはたらきがあるという前提があって、さらにその前にはそれぞれの「遠津御祖神」の階層のはたらきがあって、というところの階層性をしっかりと把握できるということは、客観視も伴うことにもなり、それを前提とした上での、国津神の階層のはたらきによる祝詞構文という位置付けですね。
ですから、五階層等の日頃の学びをされながら、この国津神祝詞構文を使用していただくことにもなり、国津神祝詞構文の概念としての意義というものが自分の中でもしっかり自覚されながら、そのうえで発信もなされるということだと思うのですね。
Q:お話を伺っていますと、「国津神祝詞構文」とは、非常に大切な発信であるように感じられてきます。
斉藤:
そうですね。通常でいいますと、世間は現世利益といいますか、公よりも自己利益が先に来てしまいます。
「私」の実現が先に来るという、そういう心願成就ではなくて、「国津神祝詞構文」は、「公」が先。
つまり、「身体」、「感情」、「魂」、「霊」、「神」の「五階層」があり、さらには、天津神、国津神、遠津御祖神の「神々の階層」があるということでもありますし、その「ある」ということを自分で自覚するということは、結果としてそれは公の意識にもしっかり繋がるということにもなると思います。
「私」が先に来る心願成就ではなくて、「公」が先に来ている中での心願成就といいますか、自分の公の真のつとめとして果たすことを「国津神祝詞構文」で発するということですね。
和守に入っている「国津神祝詞構文」は、公の平和であったり、一個人だけではなくて、それが人類の意識進化、公の幸につながるという文章になっています。
それが階層性の中での自らのはたらきを見出していただきながら、ご使用いただくということにもなると。
Q:和守をみなさんにお使いいただくことで、階層性を自覚しながら、自らの真のはたらきを見出していただけることにつながりそうです。
斉藤:
そうですね。本来の日本語、そして言霊(げんれい)、フトマニにも繋がってくる、世界にも類まれな、ある意味で唯一と言ってもいい日本語という言語の特質でもあり、やはり階層性が明確にあって、その一つ一つの階層、とくに神と人が一如になるということですね。
その一如になっている状態をさらに客観視できる、そういう日本語の特質だと思います。
そういう学びをしながらの、国津神祝詞構文の活用ということになると思います。
現世利益とか、自分の願望、それはある意味で当然ですし、それを否定しない人も世の中にはいらっしゃると思います。
そういう意識の次元の捉え方もあるけれども、それは、五階層の階層などを学ぶことによって、客観視がありながら祓われ鎮魂されて、本当の結びが起きて、神のはたらきを迎えて人が神と一如になり、ご加勢いただくというような、そういう一つのシステムになっているなかでの、その学びと実践であるかと。
Q:和守には、あらゆる原点が詰まっていますね。
斉藤:
そうですね。七澤先生がよく、「原点に還って」とおっしゃいますが、そういう意味では、本当に確実に原点に還ることのできるものですよね。
それが、言霊、フトマニ・・そういうものをしっかりと明確に内在している、本来の日本語であると。
階層性も、しっかり内在しています。
いわゆる対立言語といいますか、二項対立の仕組みになってしまわないのが、本来の日本語の特徴でもあると思います。
ただ、どうしても時代的な趨勢に影響をうけて、それが埋没し封印されているような状況も、もちろんあるかと思います。
あるいは、他の言語だと、階層というのが見出せないというふうになってしまうと思いますが、逆に日本語を使うことによって、日本語脳といいますか、日本語で考えたり感じたり、日本語を学べばそういうふうにもなってくるということだと思います。
日本語を学ぶ、話すということで、そういった階層も見出すことができるということだとも思います。
ここで、あらためて大切なポイントをまとめさせていただきますと、階層性を備えている日本語は、それを前提とした物の見方があり、そこには当然客観視というものが伴うということ。
そして、「神人一如」と「神人合一(一体)」との違いがあるということ。
階層性を備えていますと、当然そこには俯瞰的なものの見方、客観視ができるということですから、そのときに神と人が初めて一如として結び、繋がることができるということです。
ところが、いわゆる「神人合一」の場合は、主体と客体のあり方が曖昧な、客観視ができていない状態であると言えると思います。
また別の言い方では、階層的なものの見方ができないわけですから、それは二項対立的な物事の捉え方にも繋がります。
また、祝詞構文の文章形式の特徴の一つには、リフレーミングに繋がるような、限定された書き方にもなります。
そういう意味では自由度が束縛されているけれども、それが逆に功を奏して、とくに自我の階層というか、情緒の階層を客観的に捉えることに繋がると思います。
それによって自我の意識も客観的に見つめることができて、結果的に実現する方向につながっていくという。
リフレーミングという見方自体も、客観視にも当然なってくると思います。
一方で、自由に書くということも当然大事でありますので、祝詞構文からの学びを得ながら、現代文でも自由に書くこともできる。
本当に自由に書くことはどういうことなのか、という学びにも繋がるのではないかと思います。
Q:情緒とは一つにならずに客観視をして、神とも完全に合一するのではなく一如といいますか、そこにも客観視があるということで、すごく一貫していると思います。
斉藤:
一如ということ自体が、客観的にとらえて見つめているという状態だと思います。
一体や合一ですと、もうそれ自体が曖昧で、客観的に捉えられないということだと思うのです。
感情がおさまってくることで、情緒という言葉として、その情緒の中にはいろんな感情が当然入っていて、それを情緒の階層として、しっかり客観的に網羅分類もできる。
感情を情緒の階層として捉えること自体が、すでに客観視している状態です。
それは、鎮魂とも繋がりますね。
そういう意味で、情緒というものをいかに客観視するかということが、一つのポイントだと思います。
客観視をして鎮まることで、遊離した魂(たましい)が、魂(たま)になるという。
Q:感情を客観視するというのは難しいという方も、多いのではないかと思います。その中でデジタルテクノロジーがあると、サポートになってくれる部分もありますよね。
斉藤:
そうですね。アナログの学びと同時に、そのあたりは強力にはたらくと思います。
白川では、情緒を階層として捉える時点で、もう感情自体を客観視していることになるわけで、これをはっきりと学びとして打ち出しているのですね。
その情緒の奥に、精神(魂が鎮まった状態)の階層があって、魂(たま)になったときは本来の結びのはたらきとしての霊の階層のはたらきにより、人が神と一如として繋がってくるということだと思います。
そこには当然、明確な客観視の状態もあるのですが、従来ですと、そこが非常に曖昧にされてきてしまっている。
客観視の状態がないことになります。
日頃の学びでは、初めから客観視のこと、魂(たましい)が魂(たま)になることなどを、階層の学びとして明確に打ち出しています。
Q:和守に入っている構文について、具体的にお話を聞かせてください。こちらは、宮司のほうでこの祝詞構文を入れようとピックアップしてくださったものですか?
斉藤:
約100項目くらいピックアップされた祈願項目をテーマに祝詞を作ってほしいという依頼が、昨年の1月くらいにありました。
その中には、意味合いが重なる言葉もありまして、それらを最初は分類しながら進めました。
「心身健全」であったら、「健康祈願」という言葉もあったりします。
ほぼ同じ意味合いになるものは集めて、網羅分類して、代表的な言葉としてここに出しているという感じです。
「当病平癒」や「心身健全」も似ていますが、心身健全は初めから健康の状態で、当病平癒はすでに病気になってしまっている方。
そういう意味で、2種類違う祝詞構文として出ています。
あとは、「事業繁栄」と「商売繁盛」の違いとして、事業繁栄は大きなお仕事に携わっている方で、商売は小規模な商売などにあたります。
通常神社やお寺などでよく耳にするような願い、健康や商売、旅行、学業というのは、おおむね皆さん祈願されるテーマの言葉だと思いますので、100項目あった中から、20ほどピックアップさせていただいたということになります。
Q:「天機置師神顕現祭祝詞」も入っているということで、やはりロゴストロンとしてのテクノロジーの力が発揮されるという位置付けでしょうか。
斉藤:
そういうことですよね。それを他の言葉でいいますと、通常つい「アナログ」と「デジタル」と対立的に捉えがちなところがありますけども、そうではなくて、むしろ両方をうまく活かしていく時代だという宣言でもあると思うのです。
大きな時代の転換期は情報量が一気に上がって、それを乗り越えてきた歴史がありますね。
活版印刷にしてもパピルスにしても、これは例えかもしれませんけども、そこで一気に情報量が増えてきてるわけですよね。
実はそうではなかったということで、人は自ずとそれで取捨選択をしながらも、結果的に受け入れて次の時代を迎えてきたという歴史だと思います。
今回、それがデジタル革命といわれるほど圧倒的な情報量ですが、そういう意味でデジタルも受け入れて乗り越えなければいけないというのも示唆しているような今の時代といいますか、やはりロゴストロンというものも、そういった先を見越したデジタルとアナログの統合として、両方とも行き来できるような一つの宣言でもあるのではないかと思います。
Q:祝詞構文の一覧を拝見していまして、たとえば会社員をされている方でお仕事がうまくいったらいいなということに関してですと、「商売繁盛」にあたるでしょうか。
斉藤:
「商」という字も入っていますから、ビジネスをされている方という意味では、商売繁盛ということになるかと思います。
あとは、いわゆる実務をどこに当てているかということになります。
今の時代は、実務というと、自分の携わっている仕事やスキルに重きを置いてこうしたいという傾向があると思うのですが、一方で、「そもそも生き方とは」という意味において、実務という言葉を捉える方もいらっしゃると思います。
つまり、その前に自分が何をすべきかと考えたときに、ここでどういう学びをしているかなど、どんな生き方をしていようと、そこから学ぶものは遡るべき源のところが共通していますので、そこから学んで見直して、「まことのつとめ」としての実務の捉え方の人もいらっしゃると思います。
Q:いわゆる現代文による祈りではなく、上代語で書かれていて、独特なフレームの中で階層性でもって祈るというこの内容を知っていただくことだけでも、とても原点に立ち還っていただけるような発信内容になっていますよね。
斉藤:
通常の神社やお寺では、現世利益など、自我が先行しがちな願いであったり、それが祈りと自分でみなしているというのが現状であるかと思うのですが、一方で、階層的に捉えるということは、「私」というものの見方から「公」が先に来る見方になってくるわけで、その中での国津神のはたらきを自覚するということで、それが公の真のつとめを見出すことでもあるということですね。
公の真のつとめとしての今の仕事という見方を見出していただく、そういう学びの場でもあると思います。
そうしますと、こういう祝詞構文が作られる前提となる学びはどこから来ているのかとユーザーさんが振り返っていただければ、自ずと白川の学びや他の事業などの関連性も点が線になって、どんどん発見や気づきが出てくるのではないかと思います。
そういう意味で、祝詞構文を使っていただくと良いかと思います。
大事なことは、「私」優先の現実的な利益を即願うような祝詞の活用ではないということですね。
国津神のはたらきというのは、そういうものでもあります。
Q:上代語は一音一音にいろいろな意味が入っていますが、そういった情報量の違いというのは、現代語との違いとして一番大きなものでしょうか。
斉藤:
そうですね。大野さんが以前書かれた『言霊はこうして実現する』などの関連著書に載っているかと思いますが、「古層和語圏」という、上代人が使っていた上代語や上代和語とか、これは実際の科学でも言葉の定義があると思いますが、上代和語といわれているものは「古層和語圏」で使われていた言葉ということで、情報量がずっと蓄積されてあるということです。
網羅、分類、階層化、統合することができるということは、ものすごい情報量が入っているということでもありますから、それが「古層和語圏」にアクセスすることでそれを引き出すことができるという文脈が、そういった書籍でも見ることができます。
そういう意味で、上代和語を活用することによって、そことリンクできる仕組みがあると思います。
Q:その「古層和語圏」がもっているはたらきとして、先日七澤代表が朝のお話で、「上代語には結びのはたらきがある」とおっしゃっていました。この上代語における結びのはたらきについては、いかがでしょうか。
斉藤:
いわゆる対立言語ではないですが、日本語以外の言葉は文化文明を破壊してしまうわけですね。
ところがコトダマや言霊(げんれい)、フトマニを内在している日本語は、さらに古い言葉であればあるほど、そういった二項対立的に破壊する方向ではなくて、むしろ統合するはたらきがすでにあるわけです。
網羅、分類、階層化して統合するということができること自体が、すでに結びのはたらきだと思います。
結びには、「分離」と「結合」の両方があり、それぞれの働きを同時に内在しているはたらきのことですよね。
ところが二項対立は、ただ対立して破壊してしまう定めにあって、結局は残らないというか、どちらかが片手落ちになるというか。
それが、結びという言葉の概念には、分離と結合が両方あるということですよね。
それで、結果としては残ることにつながるという。
ちゃんと整理されながら、網羅、分類されながらそれをさらに位相階層で分けながら、それが統合されているということだと思います。
Q:日本語は、起源がはっきりしないほどずっと以前から残ってきた言語という点で、日本語そのものを生かすようなはたらきも内在しているように感じました。命まで活かすといいますか、破壊ではなく統合してくれるという、独特な日本語のはたらきだからこその、この日本語の歴史であるということになってくるのでしょうか。
斉藤:
やはり、母音と父韻と子音、それぞれの役割といいますか、そう考えると結局そういうことではないでしょうかね。
父、母、子でそれぞれの役割がきちんとあるということですよね。
その役割がそれぞれありながら、統合されている。
日本語は、その最小単位なのではないでしょうか。
Q:全宇宙を動かしている元のはたらきが、日本語としてダイレクトに母音と父韻と子音という形であらわれているということですものね。
斉藤:
母音は、いわゆる地球でもあるわけですから。
そして、地球としっかり繋がるからこそ、今度は宇宙の太陽系、銀河であったり、それぞれの階層の区分けとしての宇宙をどんどん連動していけるという。
それは、ある意味で母音がしっかりしているからともいえますよね。
日本語以外は、母音優勢言語ではないところであるから、つい対立しがちになるというような言い方もできるかもしれませんね。
Q:「アナと雪の女王」の主題歌で、世界中の言語で歌ったYouTube動画があります。世界中の人からどの言語が一番好きかというのをランキングで取ったら、日本語が圧倒的に1位だったらしいのです。なにか、宇宙を包含しているような言語の響きに魅力があるのでしょうね。
斉藤:
よく「YAP遺伝子」とか「日本語遺伝子」など話に出ますが、いま最先端科学の方たちは遺伝子学がすごいですね。
従来の説を覆す勢いですが、そういう意味ではもともと精神遺伝子として共鳴できるような「言語遺伝子」というものがあるのではないでしょうか。
それこそ、「古層和語圏」あるいはバベルの塔ではないですが、もしかしたらそれ以前の全人類は日本語を使っていたのではないか、あるいは母音、父韻、子音が明確になっていて、それでいて統合されているような言葉が使われていたのではないかと言われていますね。
でもそうなってくると、やはり日本語ではないかと思ってしまいますね。
それが、あのようなバベルの塔の神話としてあって。
本来は、縄文の時代くらいまで遡ったら、全人類が共感共鳴できるような響き、振動・・それは日本語にもあるし、そういう日本語は、大宇宙、そして宇宙のそれぞれの階層とも当然結んでいるわけですから、ある意味で当然というか。
より共鳴しやすいというんでしょうか。
Q:「共鳴する言語」だからこそ、世界中の人が聞いたときに「日本語がいい」と共鳴してくれているということでしょうし。
斉藤:
今回、天沼矛が作られて、それが開示されたのも、やはりそういった振動、最小単位として、それが「三種の神器」の意味合いといいますか。
全人類、それは宇宙の振動ですから、それが前提にあったうえでの剣、矛ということだと思います。
Q:今回のお話が、皆さまにすごく大切なメッセージとしてお届けできそうです。上代和語であったり、日本語、和守といったものに、すべてが入っているといいますか。
斉藤:
最近の事業活動において、自分でもそれぞれの事業をどのような繋がりでおこなっているのかということを常に学ばさせていただいているので、器の教えにしても、あらためて自分でなるほどと思ったりします。
Q:以前お聞きした話で、祝詞を奏上される際に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)のおはたらきを意識されてから、奏上される祝詞の言葉の響きが変わられたというようなことを伺ったことがありまして、そのあたりについて、お話いただける範囲でお聞かせいただけますでしょうか。
斉藤:
日頃学ばせていただいて、実感させていただいていることは、たとえば神道界の神主さんでも祝詞を唱える場面がありますが、通常は自分を「祓う」というプロセスが曖昧なのですね。
形式上は、禊祓いをして、そのあと祝詞奏上というスタイルで神道界でも行ってはいるのですが、白川のおみちにおいては、まず自分自身もみなさんとあのような場で共に祓詞をして、言葉を祓い清めさせていただいて、そのプロセスのあとに祝詞奏上という場面で言葉を発する順番になっていますが、それがはっきり実感としても感じられるのですね。
やはり祓詞をして、自分がもともと持っている言葉が祓詞を通じてそこで祓われて変化して、そのあとに祝詞奏上という場面において、祝詞といわれている詞をその流れに沿って次の場面で発していくという、そのシステムが実際に実感としてもすごく違いがあると感じます。
まず、それが一つですね。
そのうえで、祝詞を唱えるとき、天児屋根命はいくつかはたらきを併せ持っていまして、その一つのはたらきとして、「祝詞の神」ということがあります。
ですので、祝詞の神である天児屋根命に一如としてご加勢をいただく、神のはたらきとしてお借りする。
自分の中で黙唱をします。
「天児屋根命、ご加勢の程よろしくお願いいたします」と。
一度お断りをして、それで唱えさせていただいている、というようなところでございます。
そこには、あくまでもお断りして、ご加勢しておはたらきをお借りするという立場、いわゆる一如的な立場でおこないます。
特別何かあるというようなことではなくて、ご加勢の程よろしくお願いいたしますと言って、そのうえで唱えているという感じです。
Q:今回、皆さまに和守をお使いいただくにあたりまして、宮司からメッセージがありましたらいただけたらと思います。
斉藤:
先ほどのお話の繰り返しになってしまうかもしれませんが、通常の現世利益の、「私」が先に来るような活用ではないということで、階層性を見出していただきたいと思います。
それは、本来の日本語の「在り方」ともいえます。
そして、その在り方がわかれば、「やり方」がわかります。
そのやり方というものが、「祝詞構文」でもあるわけです。
ですので、この機会を通じて、日本語の「在り方」と「やり方」を明確にしながら、それは日頃の学びを振り返るということにも繋がります。
そのうえで、和守を活用いただきたいと思います。
すると、自ずと公とはなにかであったり、公をテーマとした構文になるとか、そういったことの整理がついてくるようなシステムだと思います。
それは、もちろんロゴストロンも含めてです。
その人自身の自覚や気づきが先にないと難しい部分もあるかもしれませんが、そういった公の学びがあったうえでの国津神祝詞構文でもありますし、祝詞構文の在り方であるのは間違いないですので。
祝詞構文を活用されるにあたって、本来のコトダマといわれている、言霊(げんれい)、フトマニに通ずるものを内在している日本語の「在り方」をもう一度学び直していただきながら、「在り方」がわかれば「やり方」が自ずとわかりますので、その上で、祝詞構文をご使用いただけたらと思います。
そうしますと、自ずと「公とは何か」ということが明確になってくるのではないでしょうか。
これまで、公に生きると言うと、「きれいごとを言って」とか言われることがありました。
世間でもよく言われることでもあると思うのですが、公の前に、自分の生活が成り立たないといけないとか、やはり食べていかないといけないとか、お金を稼がないといけないという、そういったことを主張される価値観の方も多くいらっしゃると思うのです。
私と公を分けるといいますか、それはそれで人間の業のようなものも含めて、そういった価値感もあるとは思うのですが、本当は、決して公に生きるとか、公のためにというのは、偉いこととかそういうことではなくて、本当に公に生きることに気づいたとき、公と私のその在り方がむしろ逆に分かってしまうというか。
公に生きると、それがそのまま自分のためになるというか、そういう自覚や気づきが常に内在している学びではないかなということを実際に思いますね。
本当に公に生きると、当然世の中も幸せになるし、自分自身もそのままダイレクトに幸せになる。
そういう本来の生き方だと思うのですね。
その公に生きるということの、本当の言葉の意味というか。
そういったことをみんなで共有する意味での、いろんな事業だと思います。
公の「ため」と使ってしまっている表現も、誤解される原因としてあるかもしれません。
つい二項対立で無意識にそういう位置付けだと思ってしまいますと、そこで出てくる言葉が「きれいごと言って」とか、「本当は裏では」といった発想が今の世の中ですよね。
客観視がないと、このような二項対立の裏表の見方になってしまうといいますか。
そこで、対立とか戦いが世の中に絶えずあったりするのではないかと思うのです。
だいたい揉め事は、そうですよね。
表ではこうやっているけど、裏はこうでしょという。
その発想自体が二項対立で、そういう善悪感情を超えたところが統合という意味だと思うのですが、そこに公を生きるという言葉が本来あって。
裏表というものが、先ほどの霊の階層の話ではないですが、魂(たましい)が遊離していると必ず対立の裏表のみで見るでしょうから、しかしそれこそ癒着しているといいますか、本当に分離していない、あるいは結合とも異なる、癒着したものの見方だと思うのですね。
だけど、そうではないところの、それこそ階層をはっきり見出したうえでのそういう意識の学びでもありますから、その見方ができると、公を生きるという言葉が、その瞬間変わると思うのですね。
同じ言葉でも全く違うといいますか。
Q:「公のために」という言葉が、二項対立を生んでしまうのでしょうね。すでに大きな屋根という公の中に生きているじゃないですか。「私」対「公」という概念を持ってしまう感じでしょうかね。すでに公の中に生きているということを思い出していただくというか、価値観を変えるだけといいますか。
アドラー心理学でいったら「共同体感覚」ですよね。ここに生きているだけでそれぞれに価値があって、役割があって。私を犠牲にして公という集団のために何かをするのではなくて、私が輝くことによって公のためになるという。すでに公に生きているという、単純な価値観の変換ですよね。
斉藤:
菟田俊彦先生のご著書にも書かれているのですが、祝詞は初めから「天神(あまつかみ)のみことのり、である」とおっしゃっています。
それに気づくということが、転換になるというんでしょうか。
何かをやっていって変わるとかではなくて、初めから神の言葉であるからという。
そういうことを前提にロゴストロンでも発信しているので、それに気づいていくというか。
Q:すでに二項対立を超えた言葉であるから、ということですよね。
斉藤:
「概念」という時点で客観視できているということですから、もう対立ということではないんですよね。
客観視しているからこそ、その概念があるわけで。
概念というのは初めから完成されている。
祓い、鎮魂、言霊(げんれい)の日頃の学びをしていただくということは必ず大事なことで、そのうえで、概念もきちんと明確に見出される。
Q:デジタルで発信するけども、結局アナログの学びに還っていく。ロゴストロンが高速学習装置であることの所以ですよね。悩みというものも、言葉の定義を自分の中でリフレーミングできたら、全部なくなりますね。
そういう意味でも、日本語、祝詞を学ぶというのは絶好の機会であると感じます。祝詞から派生して日本語を学ぶということが、この現実創造において深く関わってくるようです。自分の中にどういう言葉を持つかということで、人生は変わってくるのでしょうね。
斉藤:
明解に整理できるからこそ、他の言語よりも深さがあるというか。
そういった深い心理的な話にどんどん繋がっていくようなものだと思いますね。
その中で、「そういうことなんだ」と学びを見出して、実際に実践していかれる方々がますます多くなると思っています。
最小単位のところまで真の学びが展開されているということは、本当に学び甲斐のあることだと思います。
ありがとうございました!